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死をおそれざる [『歎異抄』ふたたび(その86)]

(7)死をおそれざる


『一言芳談』に敬仏房のことばとして「或時仰せらるる、年来死をおそれざる理をこのみ、ならひつる力にて、此所労(病です)もすこしよき様になれば、死なでやあらんずらむと、きものつぶるる也」が紹介されています。この人は、病を得ていよいよ死ぬ時が来たと思ったのに、回復して死なずに済んだことを「きものつぶるる也」と言っています。これは、死なずにすんだことを喜んでいるのではなく、ようやく死ねると思ったのにそれが果たせずがっかりしたということでしょう。本心から出たことばかどうかはともかくとして(かなり怪しいものだと思いますが)、念仏者としてはそうあるべきだと思っていたのは間違いありません。


死について少し考えてみたいと思います。


ハイデッガーは『存在と時間』において、人間を「死への存在(Sein zum Tode)」と規定し、人間にとって本質的な死を意識から遠ざけるように生きている人間を非本来的存在として「ダス・マン(Das Man)」とよびました(これはとてつもなく蔑んだ言い回しです)。それに対して死を運命的覚悟性において受けとめ、死を見つめて自覚的に生きる人間を「実存(Existenz)」とよび、実存としてはじめて人間の自由と責任を背負って生きることができると述べました。ここには死を自覚的目標として生きる生き方、言ってみれば「死のために生きる」生き方が示されています(このことと彼がフライブルク大学の学長としてナチズムを礼讃したことは無関係ではないと思います)。


仏教もともすれば「死の思想」と受けとめられます。死の怖れを克服してみごとに死ぬことを教える宗教であると。上の敬仏房も「年来死をおそれざる理をこのみ、ならひつる」人でした。だからこそ、病気になっていよいよ死ねると思ったのに、病気が治ってしまいがっかりしたと言うのですが、親鸞は「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」と正直に言います。このことばから仏教を「死の思想」と捉えることへの密やかな抗議を読み取ることができます。



タグ:親鸞を読む
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