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平等心をうるときを [親鸞の和讃に親しむ(その31)]

第4回 浄土和讃(4)

(1)平等心をうるときを(諸経讃のつづき)

平等心をうるときを 一子地(いっしじ)となづけたり 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし(第92首)

生きとし生けるものたちを、一人子のよう慈しむ、慈悲のこころは仏だけ、浄土にいたり身にそなう

一子地とは『涅槃経』に出ることばで、一切の衆生をみなわが一人子(釈迦にとっての羅睺羅、らごら、ラーフラ)として平等に見ることのできる境地をさします。すべての人を敵味方に関係なく平等に見る((おん)(しん)平等(びょうどう)になる)ことほど難しいことはありません。われらは「わたしのいのち」を生きている以上、「わたしのいのち」に利益をもたらす人には親しき人として近づき、「わたしのいのち」に害悪をもたらす人は怨めしい人として遠ざけるようになります。利益をもたらすか害悪をもたらすかに関係なく、みなわが一人子のように見る平等心をもつことなど到底できそうにありません。としますと、一子地とは仏の境地であって、われらには縁のないものということになるのでしょうか。もしそうでしたら、この和讃もわれらには縁遠いものとなってしまいますが、ここで「一子地は仏性なり」と言われていることに注目しなければなりません。と言いますのは、『涅槃経』の奥義は「一切の衆生は悉く仏性を有する」という点にあるからです。すべての衆生に仏性があり、そして一子地は仏性であるとしますと、われら決して一子地と無縁ではないことになります。

さてしかしそれはどういうことか。上に述べましたように、われらは「わたしのいのち」を生きている以上、怨親平等になることはできませんが、でも本願に遇うことができますと、「わたしのいのち」を生きながら、そのままで「ほとけのいのち」を生きていることに気づかされます。そして「ほとけのいのち」は言うまでもなく怨親平等のいのちですから、われらは怨親平等のいのちの中で生かせていただいていることになります。「ほとけのいのち」の気づきがなく、ひたすら「わたしのいのち」を生きているだけでしたら、一子地なんてまったく縁がありませんが、「ほとけのいのち」に生かせていただいていることに気づきますと、「一切の有情は、みなもつて世々生々の父母兄弟なり」(『歎異抄』第5章)という世界のなかで生きることになるのです。われらは「ほとけのいのち」に気づいたからと言って、これまで同様に「わたしのいのち」を生きていますから、怨親平等になることは金輪際できません。でも怨親平等の「ほとけのいのち」に生かされていると気づくことで、自分がいかにそこから遠くにいるかを思い知り、そんな自分が「ほとけのいのち」に生かされていることを何ともありがたいと思えるのです。


タグ:親鸞を読む
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