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われ生きんかなと思う [「親鸞とともに」その3]

(3)われ生きんかなと思う

「われ思う、ゆえにわれあり」とは、「われ思う」からこそ「われあり」と言えるということで、確かに「何かを思う」ことがある限り、そこに「われあり」が伴っていることを否定することはできません。否定した瞬間に、否定している「われ」が姿をあらわすのですから(否定することも思うことのひとつです)。これは「われ思う」には「われあり」がかならず伴っているということを意味します。そこから「われ生きんかなと思う、ゆえにわれあり」ということができます。

「われ生きんかなと思う、ゆえにわれあり」とは、「わたしが生きんかなと思う」からこそ「わたしがいま生きている」のだということです。「われ思う」がゆえに「われあり」と言えるのが確かなように、「わたしがいま生きている」のは「わたしが生きんかなと思う」からであるのも確かだと言えます。逆に言えば、「わたしが生きんかなと思う」ことがなくなれば、「わたしが生きる」こともなくなるということです。生きようと思うから生きている、これはもう疑いようもなく確かでしょう。

さて問題はこのあとです。デカルトは自身の思索過程を「われ思う、ゆえにわれあり」と推論形式であらわし、そこから「われあり」という結論を絶対に確かな真理として取り上げます。そしてこれを哲学の土台(第一原理)として、この上に自己の哲学体系を構築していくのです。しかしデカルトが見いだしたのは、「われ(何かを)思う」とき、そこにはかならず「われあり」が伴っているということ、平たく言えば、何かを思っているとき、そこには「わたし」がいるということにすぎません。スピノザに言わせますと、デカルトが見いだしたのは「われ思いつつあり」ということです。

「われ生きんかなと思う、ゆえにわれ生きる」も、生きようという思いがあるところに生きる「わたし」がいるということです。それを逆に言えば、生きようという思いがなければ、もう生きる「わたし」がいなくなるということになります。スピノザ的に言いますと、「われ生きんかなと思いつつ生きており」ということで、それはもう疑いようのないことですが、しかしそれは、生きようと思う「わたし」が「生きる」ことの根拠となっているということではありません。


タグ:親鸞を読む
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