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二元構造 [正信偈と現代(その138)]

(9)二元構造

 たとえば蓮如。「末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に、仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし」(第5帖、第1通)。ここには、われらが阿弥陀仏を一心にたのめば、阿弥陀仏は必ず救いとってくださるという構図があります。
 これは親鸞的に言いますと、第19願の救い、あるいは『観無量寿経』に説かれる臨終来迎の教えではないでしょうか。いや、平生に信心をえる、そのとき直ちに往生が定まるのだから、臨終来迎を待つのではなく、平生業成(へいぜいごうじょう)の教えであると言われるかもしれませんが、そもそも平生の信心がどのようにして成り立つものでしょうか。こちらに在家止住のともがらがいて、あちらに阿弥陀仏がいるという構図で、そこに如何にして疑蓋無雑(ぎがいむぞう)の信心が成り立つのか。
 この構図は、ぼくらが普通に何か(誰か)を信じるという場合とまったく同じで、主体が客体を信じるという二元構造をしています。この構造においては、どれほど深く信じると言っても、一抹の疑いは残らざるをえません。それは主客の二元構造につきまとう宿命というものです。蓮如はこれでもかとばかり「露塵ほども疑いあるべからず」と繰り返しますが、それはどこまでいっても疑いが残ることの裏返しに他なりません。
 親鸞の言う信心はそういうものではありません。何か名状しがたい真実に「気づく」こと、それが親鸞の信心です。そこにはわれらが何かを信じるという二元構造がありません。われらは不思議な気づきのなかにたゆたっているだけです。ただ、それを誰かに伝えようとするとき、阿弥陀仏、本願、他力といった道具立てが必要となってくるのです。真実の気づきそのもの(月)と、それについて語る語り口(さす指)とをきちんと区別しなければなりません。

                (第15回 完)

タグ:親鸞を読む
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