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真の言は偽に対し仮に対するなり [「信巻を読む(2)」その48]

(2)真の言は偽に対し仮に対するなり

親鸞の自釈に入りましょう。まず「真の言は偽に対し仮に対するなり」とありますが、ここに親鸞独自の見方があります。すなわち、真に対するのは偽ですが、親鸞は真に対するものとして、もう一つ仮(あるいは化)を上げるということです。

『教行信証』の第一巻「教巻」から第五巻「真仏土巻」までは「真」の巻ですが、最後の第六巻「化身土巻」は「化」の巻です。親鸞にとって真の教えとは別に化の教えがあり、それはすぐには真の教えに入れない人を、真の教えへと導くための方便の教えです。災害で家をなくした人のために、本来の家ができるまでのあいだ暮らしていけるように仮設住宅がつくられますが、同じように、本来の真実の教えに至るまでのあいだ、真実の教えを受け入れる準備のために方便の教えが用意されるのです。真の教えに対して偽の教えとは別に化の教えがあるように、真の仏弟子に対して偽の仏弟子とは別に、さらに化の仏弟子がいるということです。

次に「弟子とは、釈迦・諸仏の弟子なり」とありますが、「弥陀の弟子」とは言われません。それは何故かを考えるために、ここであらためて弥陀と釈迦・諸仏との関係をふり返っておきましょう。

鍵となるのが第十七願です。「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」とありますが、ここで「われ」が弥陀であり、その名(名号)を称するのが諸仏(釈迦も娑婆世界の仏として諸仏のひとりです)です。すなわち弥陀の「ねがい」(本願)を一切衆生に知らせるために、十方世界の諸仏が「南無阿弥陀仏」(名号)を称えるのです。そしてその「こえ」をしかと聞受することが信心であり、その人が真の仏弟子、金剛心の行人です。金剛心の行人と言われますのは、信心と本願名号はひとつであり、したがって信心の人は本願名号とひとつになっている人ですから、その信心はもう天地がひっくり返っても壊れることがないからです。


タグ:親鸞を読む
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