SSブログ
『ふりむけば他力』(その73) ブログトップ

マールンクヤ [『ふりむけば他力』(その73)]

(12)マールンクヤ

 マールンクヤが釈迦にぶつけた問いは次の四つでした。
  1. 世界は常住か、無常か(世界は時間的に始まりがあるかどうか)。
  2. 世界は有限か、無限か(世界に果てがあるかどうか)。
  3. 身体と魂はひとつか、別か。
  4. 人間は死後も存在するか。
 1と2が先の第一アンチノミーにあたり、3と4がいまの常住不変の「わたし」があるかどうかにあたることが分かります。仏教とカント哲学の符合には驚かざるを得ません。さてマールンクヤがこのように問うのですが、釈迦はそれに答えようとせず沈黙したままです。再三再四の問いかけに釈迦はついに口を開き、そして逆にこう問います、「マールンクヤよ、毒矢に射られたバラモンがいるとせよ。周りの人たちは医者をよんで矢を抜かせようとするが、本人が矢を射たものの身分と姓名が分かるまでは矢を抜いてはならぬと言ったとしたらどうか。汝はそれをどう思うか」と。
 釈迦の問いの意味は明らかです。汝がいますべきことは毒矢を抜くこと(苦しみの元を取り去ること)であり、矢を射たものの身分や姓名を知ること(形而上学的な問いの答えを求めること)ではないということです。ここに仏教のスタンスがはっきり示されています。いまわれらはまさに苦しみのなかにあること、そしてその苦しみをもたらしている元凶こそ「わたし」への囚われであること、そのことに気づくことで苦しみの元が断たれること、これを知ることこそが大事であり、「わたし」が死後も存在するかどうかを知ることではないと言っているのです。
 マールンクヤは常住不変の「わたし」(インドでは伝統的にこれを「アートマン」と呼んできました)があると思っています。そしてその「わたし」とわが身体(これは常住不変ではありません)の関係はどうなっているのか、さらにその「わたし」は死後も存在しつづけるのかを知りたいと熱望しているのです。しかし釈迦に言わせれば、それこそ「わたし」への囚われであるということになります。どこかに常住不変の「わたし」があるかの如く思い込み、それに囚われている。それこそあらゆる苦しみの元であるというのが釈迦の無我の教えです。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『ふりむけば他力』(その73) ブログトップ