SSブログ
はじめての『尊号真像銘文』(その96) ブログトップ

真理はひとつ [はじめての『尊号真像銘文』(その96)]

(15)真理はひとつ

 ここで宗教の排他性について考えておきましょう。こう言っている今もどこかで宗教間・宗派間の対立が流血を招いています。人に救いももたらすはずの宗教が流血の苦しみを生みだすというのは何とも矛盾したことと言わなければなりませんが、そのもとは宗教にまとわりつく排他性にあります。「かくかくのことを信じれば救われる」と説くことは、それを信じないものは救われないと言うことになり、かくして宗教の数だけ憎しみが生まれることになるのです。
 まず確認したいのは、われらに救いをもたらす真理はひとつしかないということです。すべての人がただひとつの真理により救われるということ。
 すかさず反論がおこるでしょう。そんなことを言うから、それぞれの宗教が「われに唯一の真理あり」と主張しあい、その結果として血で血を洗う争いになるのではないか、と。それぞれの宗教にそれぞれの真理があると認めあうことで、はじめて諸宗教が平和に共存できるのだということです。一応もっともなようですが、ことが真理に関わる以上、そのような相対主義は成り立ちません。ある人が「これが真理です」と主張することは、「これに反することは真理ではありません」と主張することです。もし「これが真理ですが、これに反することも真理です」という人がいるとしますと、その人は「これは真理ではありません」と言っているのです。
 やはり真理はひとつだと言わなければなりませんが、としますと、それぞれの宗教が「われに真理あり」と主張しあっているという現実をどう見ればいいのか。そのなかのひとつが真理であり、それ以外は虚偽ということになるのでしょうか。仮にそうだとしても、いったい誰がそれを判定するのか。そして、どんな人が判定するとしても、虚偽と判定された宗教がそれに従うとはとうてい考えられません。かくしてそれぞれの宗教が「われに真理あり」と主張して争いあう現実はいつまでも続くことになります。
 「われに真理あり、信じるものは救われる」という宗教の常套句に問題の根源があると言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『尊号真像銘文』(その96) ブログトップ