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「いるかのように」 [『一念多念文意』を読む(その166)]

(15)「いるかのように」

 この「疑いつつある」という微妙なスタンスをよくよく考えてみますと、そこにはわれではない誰か(他者)がいるのではないでしょうか。
 われは「われはあるのか」と自ら疑うことができないとしますと(疑った途端、そこには疑っているわれがいるのですから)、われではない誰かがいて、その誰かから「汝はほんとうにいるのか」と問われたとしか考えることができません。われではない誰か(他者)から「汝はほんとうにいるのか」と問われて「われ」の自明性が揺らぎ、「われはいないのではないか」という疑いが生まれるのです。
 われではない他者とは、目の前にいる「あなた」ではありません。「あなた」もまた「われ」の一人ですから、「汝はほんとうにいるのか」と問われこそすれ、そのように問う立場にはありません。では、それは一体誰か。
 そうした他者がどこかに実在していると考えるべきではないでしょう。どこかに実在すると考える発想はもはや仏教ではありません、しかし、どこかから問いかけられたとしか考えられませんから、どこかに「いるかのように」思わざるを得ない。これが他者としての仏です。そう考えなければ「われがない」ということを「こころにうかべおもふ」ことができないからです。
 どこかに実際に存在するわけではないが、どこかに「いるかのように」思わざるをえない存在、これはいったい何でしょう。頭にうかぶのは「死者」です。死者はどこかに実際に存在するわけではありませんが、どこかに(あの世に)「いるかのように」思わざるをえません。最終回にこの問題を集中的に考えてみたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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