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『末燈鈔』を読む(その226) ブログトップ

第12通 [『末燈鈔』を読む(その226)]

           第16章 そのところの縁つきて

(1) 第12通

 第12通、真浄房宛ての手紙です。2段に分け、まず第1段。

 さては念仏のあひだのことによりて、ところせきやうにうけたまはりさふらふ。かへすがへすこゝろぐるしくさふらふ。詮ずるところ、そのところの縁ぞつきさせたまひさふらふらん。念仏をさへらるなんどまふさんことに、ともかくもなげきおぼしめすべからずさふらふ。念仏とゞめんひとこそ、いかにもなりさふらはめ。まふしたまふひとは、なにかくるしくさふらふべき。餘のひとびとを縁として、念仏をひろめんとはからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからずさふらふ。そのところに念仏のひろまりさふらはんことも、仏天の御はからひにてさふらふべし。
 慈信坊がやうやうにまふしさふらふなるによりて、ひとびとも御こゝろどものやうやうにならせたまひさふらふよし、うけたまはりさふらふ。かへすがへす不便のことにさふらふ。ともかくも、仏天の御はからひにまかせまいらせさせたまふべし。そのところの縁つきておはしましさふらはゞ、いづれのところにてもうつらせたまひさふらふておはしますやうに御はからひさふらふべし。慈信坊がまふしさふらふことをたのみおぼしめして、これよりは、餘の人の強縁として念仏ひろめよとまふすこと、ゆめゆめまふしたることさふらはず。きはまれるひがごとにてさふらふ。この世のならひにて、念仏をさまたげんことは、かねて仏のときおかせたまひてさふらへば、おどろきおぼしめすべからず。やうやうに慈信坊がまふすことを、これよりまふしさふらふと御こゝろへさふらふ、ゆめゆめあるべからずさふらふ。法門のやうも、あらぬさまにまふしなしてさふらふなり。御耳にきゝいれらるべからずさふらふ。きはまれるひがごとどものきこえさふらふ。あさましくさふらふ。入信坊なんども不便におぼえさふらふ。鎌倉にながゐしてさふらふらん、不便にさふらふ。当時、それもわづらふべくてぞ、さてもさふらふらん。ちからおよばずさふらふ。

 (現代語訳)さて念仏を巡る問題で窮屈な思いをなさっておいでになると聞いております。本当にお気の毒なことです。所詮その土地での縁が尽きてしまったということでしょう。念仏を押し止められるなどということを何も嘆くことはありません。念仏を押し止める人は、どのようになられようとも、念仏する側は何も心配することはありません。他の人たちを頼りにして、念仏を広めようと考えるなどということは、ゆめゆめあってはなりません。その土地に念仏が広まるのも広まらないのも、仏のおはからいでありましょう。
 慈信坊がさまざまに言うことで、みんなの気持ちもさまざまに揺れ動くのだとお聞きしておりますが、何とも哀れなことです。ともかく仏のおはからいのままにまかせるべきです。その土地の縁が尽きてしまいましたら、どこか別の場所へ移ろうとお考えになってください。慈信坊がそう言っているようですが、私から他の人を頼りとして念仏を広めよなどと言ったことは絶対ありません。とんでもない誤りです。この世のならいとして念仏を妨げようとする人がいるのは、かねてから仏が説いて下さっていることですから、驚くことではありません。いろいろと慈信坊が言っていることを、わたしが言っているように思うなどということはくれぐれもありませんよう。念仏の教えにつきましても、とんでもない言い方をしているようです。聞き入れてはいけません。ひどく間違ったことを言っているようです。あさましいことです。入信坊も気の毒なことです。鎌倉に長く足止めになっているようです。哀れなことです。今あなたも辛いことになられて、お察しいたします。何ともできません。


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