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12月31日(月) [はじめての親鸞(その4)]

 ぼくならその高校生にこう答えます、「どうやら君は自分がどうして生きているのかが分からなくなっているね。もし自分がなぜ生きているかが分かれば、おのずとその問いは消えるはずだ。だから君が今考えなくちゃいけないのは、なぜひとを殺してはいけないかではなくて、なぜ君自身が生きているかだ」と。
 生きることは素晴らしいと思えるから、人を殺すなんてとんでもないと思うのです。生きることが何でもなくなると、死ぬことも何でもなくなり、じゃあ死んでみるか、人を殺してみるかとなるのです。
 「なぜ人を殺していけないのか」と尋ねた青年は、実は「なぜ人は生きるのか」と問うているのです。この「なぜ生きる」という問いほど過剰なものはありません。そんな問いは平穏な時間を過ごすのに不要であるばかりか、むしろ平穏をかき乱してしまうからです。
 若かった頃、道を歩いていて突然若い女性から「あなたが生きる意味は何ですか?」と問いかけられて「ギョッ」としたことを思い出します。「急ぎますので」とかわしながら、「そんなことをこんなところで聞くなよ」とかすかな怒りを覚えました。「余計なお世話だ」という反発を感じたと言ってもいい。
 この問いは気恥ずかしいだけではなく、どこかアブナイところがあります。あのうら若い女性はどこかの宗教団体に属していて、ぼくを勧誘しようとしていたに違いありません。だれかれなしに声をかけている訳でもなかったようですから、ぼくは生きる意味を見失って虚ろな眼をしていたのかもしれません。

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