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ひかりと闇 [正信偈と現代(その54)]

(2)ひかりと闇

 まず第一句、「摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)」です。阿弥陀仏がひかりの仏であることはすでに第3回においてくわしく見てきましたが、親鸞は『尊号真像銘文』でこれを自ら解説するなかで、弥陀のひかりが信心の人を照らしてくれることを「無明のやみはれ、生死のながきよすでにあかつきになりぬ」と言っています。このように信楽開発を夜明けに譬えるのはしみじみとした味わいがあります。そこであらためて「ひかりが射し込むことにより闇がはれる」ということについて思いを潜めたいと思います。
 スピノザは『エチカ』で「ひかりはひかり自身と闇とをあらわす」と言い、それは真理が真理をあらわすのみならず虚偽をもあらわすのと同じであると述べています。
 ぼくは以前、『創世記』の「神はひかりあれと言われた、するとひかりがあった」ということばから、ではひかりがこの世に現れる前はいちめん闇の世界だったのかと自問し、そうではなく、ひかりが現れることではじめて闇も現れたはずだから、ひかりが現れる前は闇の世界ではなく、ひかりでも闇でもない混沌であったとしか言えないと考えました。この答えにひとりほくそ笑んでいたのですが、そんなことはとっくにスピノザが言っていたということを知り、がっかりしたのを覚えています。だいたいぼくが考えつくようなことはすでに誰かが考えているということです。
 「ひかりはひかり自身と闇とをあらわす」というスピノザのことばの射程はきわめて長いと言わなければなりません。夜明けは太陽のひかりにより明るくなることですが、同時に、これまでが暗闇であったことを明らかにします。夜と昼は無限に繰り返されてきましたから、夜明けの前は暗闇であったことは当たり前に知っていますが、はじめて夜明けを経験するときを想像してみますと、「あゝ、これが夜明けだ」と思うとともに、「あゝ、これまでは暗闇の夜だったのだ」と驚くに違いありません。夜明けになる前は、それが夜の闇であったとも思っていなかったはずですから。

タグ:親鸞を読む
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