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争うな(第12章) [『歎異抄』ふたたび(その96)]

(7)争うな(第12章)


次に第12章、「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよし」という異義について。唯円はこれに対して、往生は本願力によるのであり学問によるのではないと一喝しますが、この問題を考えるに際しては、その背景に聖道門諸宗と浄土門との間に争いがあったことを頭においておかなければなりません。聖道門の人から「念仏はかひなき(甲斐性のない)ひとのためなり、その宗あさし、いやし」と攻撃されたときに、こちらもきちんと学問して、そうではないことを主張すべきではないかという考えがあったのですが、それに対して「学問など必要なし、争うことなし」と述べているのです。この「争わず」という姿勢についてはよくよく考えてみなければなりません。


これまた「気づき」ということに関わります。


本願は気づいてはじめてその姿をあらわしますから、気づいていない人には本願なんてどこにもありません。ですから、本願について、それがあるのかないのかという争いはもともと起こりようがありません。本願に気づいた人にはありますが、気づいていない人にはありませんから、それ以上どうしようもありません。こちらからゲットすることでしたら、ほんとうにゲットできたか、まだできてないかという論争はつきものですが、むこうからゲットされることについてはどうにも争いようがありません。そこから「その宗あさし、いやし」と馬鹿にされようと、それと争おうなどと思うことなく、「われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じ候へば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします」と応えるのがいいということになります。


次の第13章は「弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからず」という異義についてですが、この章はきわめて大事な問題が扱われていますので、次回にとっておきたいと思います。





タグ:親鸞を読む
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