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娑婆と浄土 [『正信偈』を読む(その96)]

(7)娑婆と浄土

 まず娑婆から浄土へ往き、しかる後にUターンして娑婆に還ってくるのではなく、娑婆から浄土へ往く姿(往相)がそのまま浄土から娑婆に還ってくる姿(還相)だと考えるべきです。曽我量深氏は「往相は前姿、還相は後姿」という名言を残しています。前から見れば往く姿でも、背中から見れば還る姿だというのです。
 ここで娑婆と浄土の関係について考えなければなりません。
 『阿弥陀経』で釈迦が「これより西方、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽という」と言い、これが浄土のイメージをつくっています。これを文字通り受け取る人はいないでしょうが、ともかくこの娑婆世界とは離れたところに、しかもとてつもなく遠いところに極楽浄土があるということになっています。そこである人は西に向かって手を合わせ、ある人は「ばかばかしい」とそっぽを向くのです。いずれにしても、いまぼくらがいる世界の「そと」に別の世界があり、そこへ往くことができるということになっています。
 まず、この前提を疑いましょう。
 前に「あした」に行くことはできないと言いました(第4章)が、同様に、この世界の「そと」に出ることもできません。日本の「そと」に出ても、そこは地球の「うち」ですし、地球の「そと」に出ても、そこは太陽系の「うち」ですし、太陽系の「そと」に出ても、そこは銀河系の「うち」ですし、銀河系の「そと」に出ても、…そこは何というのでしょう。とにかく、この宇宙の「そと」に出ても、そこはもうひとつ大きな宇宙の「うち」ですから、どこまで行っても、この世界の「そと」には出られません。
 では、この世界の「そと」はないのでしょうか。


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