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信心歓喜 [「『証巻』を読む」その60]

(9)信心歓喜

それを考えるために、いまいちど第十八願成就文を見てみましょう。「その名号の聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん」とありますが、この「信心歓喜」に問題を解く鍵があります。親鸞はこれを注釈してこう言います、「信心は如来の御ちかひをききて疑ふこことのなきなり。歓喜といふは、歓は身をよろこばしむるなり、喜はこころをよろこばしむるなり。うべきことをえてんずとかねてさきよりよろこぶこころなり」(『一念多念文意』)と。このように「如来の御ちかひ」を聞くことができたことは、「身をよろこばしめ」「こころをよろこばしむる」ことであると言うのです。とりわけ「うべきことをえてんずとかねてさきよりよろこぶ」という言い回しが印象的です。

「えてんず」というのは「う(得)」の連用形「え」に、確認をあらわす助動詞「つ」の未然形「て」が接続し、それにさらに推量をあらわす助動詞「むず」がついたもので、「きっと得るに違いない」という意味になります。そして「かねて(あらかじめ)さきよりよろこぶ」とつづきますから、まだこれからのことですが、かならず得るに違いないと思って喜ぶということです。この言い回しで親鸞が表現しようとしているのは、第十一願「国のうちの人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」の「かならず滅度に至る(必至滅度)」ということです。信心歓喜とは、本願に遇うことができたそのとき、「かならず滅度に至る」ことを「かねてさきよりよろこぶ」ことです。

「かならず滅度に至る」といいますのは、実際に仏になる(滅度に至る)のはまだ先のことですが、信心の「いま」、「仏になることは疑いない」ということです。それは、まだ「わたしのいのち」というかたちをとっているものの、「ほとけのいのち」に遇うことができた「いま」、「わたしのいのち」のままで、もうすでに「ほとけのいのち」を生きているということに他なりません。これまではひたすら「わたしのいのち」を生きてきましたが、そして他の「わたしのいのち」たちと必死に相剋してきましたが、何と、「わたしのいのち」のままで、もうすでに「ほとけのいのち(無量のいのち、アミターユス)」を生きているのです。これに気づいて身も心も踊りあがるほど喜ばないものがいるでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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