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報の浄土の往生は [親鸞の和讃に親しむ(その72)]

(2)報の浄土の往生は(これより源信讃)

報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土にうまるる衆生をば すくなからずとをしへたり(第93首)

真の浄土に生きるひと、多くはないとおおせられ、仮の浄土に生きる人、少なくないとおおせらる。

源信は『往生要集』の最終章(第十大門)において、阿弥陀仏の浄土に真実報土と方便化土の区別があることを論じるなかで、善導の弟子・懐感(えかん)の『群疑論』から次の文を引いています、「雑修のものは執心不牢(信心が定まらずふらふらしている)の人とす。ゆゑに懈慢国(けまんこく)に生ず。もし雑修せずして、もっぱらこの業(称名)を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。乃至 また報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず」と。和讃はこの文に由っています。また正信偈にも同趣旨で「専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり(専修と雑修を区別し、それぞれが報土と化土に生まれることを明らかにしました)」と詠われています。

先に浄土も穢土もどこかに実在する世界と捉えるべきではなく、いずれもわれらの世界意識(われらが世界をどのように意識するかということ)であると述べましたが、それは真実報土と方便化土についても同じです。どこかに真実報土や方便化土があるわけではなく、われらが阿弥陀仏の浄土をどのように意識しているかの違いです。「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」に包摂され、そのなかで生かされていると意識されるとき、「いま、ここ」に真実報土がひらけます。しかし「わたしのいのち」とは別に「ほとけのいのち」があると意識されるとき、その「ほとけのいのち」の世界が方便化土です。したがって方便化土は「ここ」とは別のどこかにあると意識され、また「いま」ではないいつかそこに生まれると意識されます。

真実報土は「ほとけのいのち」がわれらに与える世界意識ですが、方便化土は「わたしのいのち」が描き出す世界意識です。


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