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還相回向の願 [「『証巻』を読む」その37]

(6)還相回向の願

親鸞は第二十二願の願文を後で引用される『論註』に委ね、ここでは出していません。しかし先に読んでおいた方がいろいろな点で好都合でしょう。「たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆 わが国に来生して、究竟(くきょう)してかならず一生補処(ふしょ)に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累(しゃくるい)し、一切を度脱(どだつ)せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙(ごうじゃ)無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫(じょうりん)に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習(しゅじゅう)せん。もししからずは、正覚を取らじ」。

この願は四十八願の中でもっとも長く、少々分かりにくいと思われますので、現代語訳しておきましょう。「わたしが仏となるとき、他の仏国土の菩薩たちがわたしの国に生まれてくれば、かならず一生補処の位に至らせたいと思います。ただし、その本の願いに応じて、自在に衆生を導こうとして、弘誓の鎧をきて功徳を積み、一切の衆生を救い、諸仏の国に赴いて菩薩の行を修め、すべての国の諸仏如来を供養し、限りない人々を教化してこの上ないさとりをえさせようと思うものはその限りではありません。そのような菩薩は、普通のあり方を超えて菩薩としての行が成就し、大いなる慈悲の行をなすことができます。もしそのようでなければ、わたしは決して仏の覚りをひらきません」。

この願は、文頭の「たとひわれ仏を得たらんに」と文尾の「もししからずは、正覚を取らじ」を外しますと、大きく二つの部分に分けることができます。はじめの「他方仏土のもろもろの菩薩衆 わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん」という文と、「その本願の自在の所化」ではじまる残りの長い文です。はじめの文は、わが国に来生すれば、かならず一生補処に至ることができるということですが、ここから「必至補処の願」や「一生補処の願」という名前がつけられます。そしてこの願が「還相回向の願」であることは、「その本願の自在の所化」ではじまる残りの部分で明らかになります。親鸞はここにこの願の本質を見たのです。


タグ:親鸞を読む
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