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たとひ一生悪を造れども [はじめての『高僧和讃』(その112)]

(14)たとひ一生悪を造れども

 道綽讃の最後の和讃です。

 「縦令(じゅりょう、たとえということ)一生造悪の 衆生引接(いんじょう)のためにとて 称我名字と願じつつ 若不生者(にゃくふしょうじゃ)とちかひたり」(第61首)。
 「一生悪をつくっても、そんな衆生のためにとて、南無阿弥陀仏となえれば、かならず救うと誓われた」。

 この和讃のもとになっていますのは前に(9)引用しました「このゆゑに大経にのたまはく『もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ』」という文です。そこで注目しましたのは、道綽は『観経』を下敷きにして『大経』を読んでいるということでした。『観経』の下品下生段をもとにして『大経』の第18願を大幅に言い換えているのです。ここで考えようと思いますのは「たとひ一生悪を造れども」という逆接の言い回しについてです。ひとつ前の和讃でも「一形悪をつくれども」とまったく同じ言い回しがありましたが、これらの逆接の意味するところに思いを潜めてみたいのです。
 逆接になる理由ははっきりしています。本来からすれば悪は往生の障害となるはず「だが」、弥陀の本願はそんな「一生造悪の衆生」のためにあるのだ、と説くわけです。
 ここから浮き上がってきますのは、弥陀の本願は、一生造悪の衆生である「にもかかわらず」救ってくださる有り難い本願であるということです。他の仏たちにも本願はあるが、弥陀の本願のように「一生造悪の衆生」を救おうというものではなく、弥陀の本願は特別に有り難い本願であるということになります。蓮如の「おふみ」にもそのような説き方がしばしば顔をだします。たとえば「抑(そもそも)、男子も女人も、罪のふかからん輩は、諸仏の悲願をたのみても、いまの時分は末代悪世なれば、諸仏の御ちからにては中々かなわざる時なり。これによりて、阿弥陀如来と申奉るは、諸仏にすぐれて、十悪・五逆の罪人を、我たすけんという大願をおこしましまして、阿弥陀仏となり給えり」(『第5帖』第4通)といった具合です。

タグ:親鸞を読む
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