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如来の弘誓願を聞信すれば [「『正信偈』ふたたび」その43]

(3)如来の弘誓願を聞信すれば

これが「一切善悪の凡夫人」ということばに含意されていることで、われは善人、かれは悪人などと振り分けることは「まことあることなき」で、われもかれもみな愚かな凡夫(ただびと)です。大急ぎで言わなければなりませんが、だからといって善悪の判断をすることに意味がないということにはなりません。たとえ善悪の判断が「みなもつてそらごとたはごと」であろうとも、われらはそれぞれのおかれた場で、持てる力の範囲でできる限り善き判断をしなければなりません。いや、そんなことを言われるより前に、そうしているのです、たとえそれが結果的に「そらごとたはごと」であろうとも。

さて「一切善悪の凡夫人」につづいて、第二句、「如来の弘誓願を聞信すれば」ときますが、これは『歎異抄』「後序」のことばでは、「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに」につづいて、「ただ念仏のみぞまことにておはします」とあるのにぴったり重なります。これは善だ、あれは悪だと言いあっているのは「みなもつてそらごとたはごと」と言わなければならないが、如来の弘誓願だけは「まことにておはします」ということです。この第二句で注目したいのは、「如来の弘誓願」を「聞信する」と言われていることです。

この「聞信」という言い回しはここにしか出てきませんが、親鸞はさまざまなところで聞とはすなわち信であると述べています。たとえば『教行信証』「信巻」では「『経』(大経)に、聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と言い、また『一念多念文意』には「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり」とあります。どちらも第十八願成就文の「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」を注釈し、本願の名号を聞くというのは、それを信ずることに他ならないと述べているのです。

「若不生者、不取正覚(もし生れざれば、正覚を取らじ)」という本願の「こえ」が聞こえて、しかる後にそれを信じるのではありません、その「こえ」が聞こえること自体が、そのままで本願を信じることです。そしてそれだけが「まこと」です。


タグ:親鸞を読む
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