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5月27日(月) [はじめての親鸞(その150)]

 戻ります。親鸞が『教行信証』に法然の文を引かないのは、法然と親鸞は一体だからだということでした。法然と親鸞は不離一体だとすると、親鸞の新しさは何もないのかと言われるかもしれません。親鸞は法然を祖述しているだけなのかと。
 学問の世界では「新しさ」が勝負です。これまでの学説にどれだけ新機軸を打ち出せているか、ここが評価の分かれ目です。すでに誰かが言っていることを言い換えているだけでは何の値打ちもありません。あることがらについて、どれだけ新しいことを掴み取れたか、他の人が見えなかったことを自分の眼で見出すことができたかを日々競っているのが学問です。しかし親鸞は学者ではありません。自分の眼で何か新しいことを見つけだそうとしているのではありません。彼はただほれぼれと「なむあみだぶつ」の声を聞いているだけです。
 「なむあみだぶつ」に新しさはありません。古色蒼然としています。
 学問の世界では「新しさ」が売りですが、一方「古さ」が売りの世界もあります。骨董の世界です。骨董で「古さ」が尊重されるのは、それが長年にわたって大事に受け継がれてきたからです。途中でおっぽり出されることなく何百年も代々受け継がれてきたということは、そこに何ともいえない味があるからです。「なむあみだぶつ」も世代を超えて大事に受け継がれてきました。「なむあみだぶつ」は悠久の時間をかけてリレーされてきたのです。
 リレーのバトンは同じものであることに意味があります。バトンが途中で新しくなるということは、その時点でリレーは途切れたということです。「なむあみだぶつ」というバトンも同じであることに意味があります。法然の「なむあみだぶつ」と親鸞の「なむあみだぶつ」が違うものでしたら、そこでリレーは途切れたことになります。

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