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どうしてわたしが [「親鸞とともに」その17]

(17)どうしてわたしが

ところで、われらは「わたしのいのち」についていろいろ不満をこぼします、「もう少し顔がよかったら」とか「もう少し頭がよかったら」とか。まあ、この程度のことでしたら「しようがないか」とあきらめることもできますが、たとえばわが子を事故で亡くしたり、思いがけない災害に見舞われたりしたときには、「どうしてわたしが」と呪詛のことばが口をついて出ます。これは「どうして他の人ではなくて、このわたしが」ということですが、この裏には「他の人ならともかく、わたしにこんなことが起るのはおかしい、何か間違っている」という思いがはりついています。

突然ですが、『観無量寿経』という浄土の経典があります。中国の随・唐の時代によく読まれた経典で、人気の背景にはそのドラマ性があります。釈迦の時代のインドの大国、マガダ国の宮廷に大事件が起きました(実際にあった出来事のようです)。王子の阿闍世が父王・頻婆娑羅を殺害し、母の韋提希を幽閉するという事件です。この経典は、心の平安を求める韋提希夫人のために釈迦が牢獄のなかまでやってきて、浄土の教えを説くという設定になっているのですが、興味深いのはそのときの韋提希の訴えです。こうあります、「時に韋提希、仏世尊を見たてまつりて、みづから瓔珞(身の飾り)を絶ち、身を挙げて地に投げ(五体投地して)、号泣して仏に向かひてまうさく、『世尊、われ宿(むかし)、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる』」と。

わが子・阿闍世にこんなひどいことをされるなんて、一体わたしがどのような悪いことをしたというのでしょう、と言うのです。わたしがこんな目に遭うのは、おかしいではありませんか、何か間違っているのではないでしょうか、と。この思いの背景には因果応報の観念があります。前に何か悪いことをしていれば、それ相応の報いがくるのはもっともですが、わたしは何も悪いことをした覚えがないのに、どうしてこんなひどい目に遭うのでしょうというのです。このように韋提希は「どうしてこのわたしが」という問いに苦しむのですが、ここから善導という唐代の浄土教の思想家は韋提希を紛れもなく煩悩成就の凡夫であるとして、『観無量寿経』は凡夫が救われる道を説く経典であると理解します。


タグ:親鸞を読む
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