SSブログ
親鸞の和讃に親しむ(その107) ブログトップ

仏智うたがふつみふかし [親鸞の和讃に親しむ(その107)]

(7)仏智うたがふつみふかし

仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし(第82首)

ほとけの智慧をうたがうは きわめてつみのおもいこと それに気づけばたちまちに 悔いて本願たのむ身に

『歎異抄』第3章に「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」とありますが、これはこの和讃とぴったり同じことを言っています。『歎異抄』の文では「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば」とあり、それが和讃では「くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし」とありますが、「自力のこころ」から「他力のこころ」へ転換することは、自分でそうしようと思ってできることではありません。「自力のこころ」したがって「仏智うたがふ」こころの人は、そんなこととはつゆ知らず「わたし」という名の牢獄にみずからを閉じこめている人のことですから、そのことに自分で気づくことはありえず、それはあるとき牢獄の外部から気づかせてもらうしかありません。仏智の気づきも仏智からやってくるしかないのです。

「自力のこころをひるがへして」は事後的にしか存在しないということです。「さあ、これから自力のこころをひるがえそう」と思うことはありえず、「ああ、もう自力のこころがひるがえっていた」と気づくことしかありません(それは「他力をたのみたてまつれば」についてもまったく同じように言えます)。そのことがこの和讃では「この心おもひしるならば くゆるこころをむねとして」と表現されています。仏智を疑う罪は深いことを「おもいしりなさい」と言っているのではなく、「おもいしったならば」と事後的な言い方になっています。まだ仏智に気づいていないのでしたら、その人に「仏智を疑う罪は深いことを思い知りなさい」と言っても通じるはずがありません。すでに仏智に気づいたからこそ、「ああ、これまでずっと仏智に気づかずにきたことだ」と「くゆるこころ」が生まれるのです。

気づきの“before”か“after”かの違いは決定的に重要です。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の和讃に親しむ(その107) ブログトップ