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しるし [親鸞の手紙を読む(その131)]

(8)しるし

 親鸞はそのことを「しるし」という印象的なことばで言い表しています。すでに『末燈鈔』第20通(第7回)、『親鸞聖人御消息集』第7通(第8回)のところで「世をいとふしるし」についていろいろ考えましたが、最後に当たり、もういちど別の角度からこの「しるし」という独特の思想について思いを廻らしたいと思います。道徳のことば・「ねばならない」と、念仏のことば・「しるし」はどう違うかという観点から、「自力と他力」ということを考えたいのです。
 「しるし」とは通常、前兆、効験、証拠といった意味でつかわれますが、これらは自分でどうこうできるものではなく、むこうから、あるいはおのずから現れてくるものです。そのように、本願に遇うことができ念仏もうす身になれたことは、本人にしか分からない「しるし」となって現れてくる。
 前にもどこかで取り上げたことがありますが、ソクラテスにはときどきダイモンの声が聞こえてきたそうです。ダイモンと言いますのは、神々と人間の中間に位置する超自然的存在のことですが、そのダイモンがソクラテスに折にふれて信号を送ってくるというのです。そしておもしろいのは、その信号は決まって禁止の信号であったということです。ソクラテスが何かをしようとすると「するな」という声がかかり、そうしますとソクラテスはしようとしていたことをやめるというのです。
 禁止の信号というところが示唆的です。「せよ」ではなく「するな」と言う。もう一度カントに戻りますと、道徳的に純粋な「ねばならない」は、無条件に理性の命令に従うということでした。「無条件に」とは、「もし~ならば~しなければならない」というのではなく(これをカントは仮言命法とよびます)、ただただ「~しなければならない」ということです(これを定言命法といいます)。カントが出している例では、「もし幸せになりたいならば、正直でなければならない」と命じるのが仮言命法で、無条件に「正直でなければならない」と命じるのが定言命法です。

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