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一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる [「『証巻』を読む」その44]

(3)一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる

「還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他(しゃまた)・毘婆舎那(びばしゃな)・方便力成就することを得て、生死の稠林(ちゅうりん)に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり」と言われますと、またしてもこれはもう人間業ではないような印象を受けます。そしてそこから、これは今生のことではなく、いのち終わって後のことに違いないという思いが出てくるのですが(還相来生説)、考えてみますと、先の賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」ということばも、とても人間のことばとは思えません。これはもう仏のことばと言わなければなりませんが、それもそのはずで、すでに述べましたように、賢治はこれを仏の願いとして仏から聞いているのです。彼が言ったには違いありませんが、その前にこれを仏から聞いているのです。だからこそこれは人間の語ることばとは思えないのです。

親鸞が「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首として大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり」という『浄土論』の文を「いかんが回向〈したまへる〉。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首として大悲心を成就することを得〈たまへる〉がゆゑに」と読み替えたわけがいよいよ明らかになりました。天親が上のように言えたのは、如来からそのことばを聞いたからこそであり、天親のことばとは言うものの、それは実は如来のことばだということです。われらが「回向を首として大悲心を成就」することができるのは、如来がすでに「回向を首として大悲心を成就」してくださっているからであるということです。

還相とは「生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり」と言われますと、われらが一切衆生を教化して、ともに仏道を歩むようにしなければならないように思ってしまいますが、生身のわれらにそんなことができるはずがありません。そうではなく、一切衆生を教化して、ともに仏道を歩むようにさせるのが如来の願いであることに目覚め、自分もまた如来の願いを自分の願いとして生きようとするということです。本願を聞くことができますと、本願をわが願いとするようになるということであり、これが還相です。


タグ:親鸞を読む
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