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「ほとけのいのち」のなかで [「親鸞とともに」その47]

(8)「ほとけのいのち」のなかで

深い夢のなかにある人は、自分の力でそこから抜け出ることができませんが、誰かに目覚めさせてもらうことで夢から脱出することができます。同じように、「わたしのいのち」への囚われのなかにある人は、自分ではそこから抜け出られませんが、外から囚われに気づかされることで脱出することができます。そのはたらきをするのが本願の名号です。本願とは「ほとけのいのち(無量寿)」の「本の願い」で、「いのち、みな生きらるべし」という願いです。「ほとけのいのちのなかで、すべてのいのちがひとつに結ばれて生きらるべし」ということです。

本願ということばの元は「プールヴァ・プラニダーナ」で、「プールヴァ」は「前の」という意味、「プラニダーナ」は「願い」という意味ですから、「前の願い」ということです。それを「本願(本の願い)」と訳しているのですが、この「前の(本の)」とは、ただの前ではなく、どんな前よりももっと前と理解すべきです。「ヨハネ福音書」に「はじめにことばありき」とありますが、それで言えば、「はじめに願いありき」と言うべきで、この世のはじめに「いのち、みな生きらるべし」という願いがあったということです。

そしてその本願は名号としてわれらのもとに届けられ、それが聞こえることでわれらは囚われから目覚めることができるのです。

名号とは単なる仏の名ではありません。それは「南無阿弥陀仏」すなわち「わたしは、ほとけのいのち(阿弥陀仏)に帰命します」という表明ですが、われらがこう表明するのは、それに先立って「ほとけのいのち」から「われに帰命せよ(平たく言えば、帰っておいで)」という「こえ」が聞こえるからです。本願はこの名号の「こえ」となってわれらのもとに届けられるのです。その「こえ」がわれらに聞こえて、そのときわれらは「ほとけのいのち」に目覚め、そして「わたしのいのち」への囚われに気づくのです。

孤独という病の源は「わたしのいのち」への囚われにあり、その囚われから自分の力で抜け出すことはできませんが、本願の名号が聞こえるとき「ほとけのいのち」に目覚めることができ、そうして「わたしのいのち」への囚われから脱出することができることを見てきました。かくしてわれらは孤独という病から解放されることになります。もはや「わたしのいのち」がどのような境遇におかれても不安や孤独を感じることはなくなります。おかれた境遇がどのようなものであれ、それは「ほとけのいのち」のなかのことですから、そこに安らぎを感じることができ、もはや「独り」ではありません。

(第4回 完)


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