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大悲弘誓の恩を報ずべし [「『正信偈』ふたたび」その60]

(10)大悲弘誓の恩を報ずべし

「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る」という文では、「本願を憶念する」ここと「必定に入る」ことが「即の時」でつながれています。そして「即の時」とは「その時に」であるとともに「もうすでに」という意味を含んでいると言いました。ということは「本願を憶念する」ことと「必定に入る」ことは、前者が原因となり後者が結果として生まれるという時間的な前後関係ではないということです。両者は「不一不二」(あるいは「不一不異」)であり、同一ではないものの切り離しがたく結びついているということです。

では問題の「易行品」における「名号を称する」と「不退転地に至る」の関係はどうでしょう。これは「名号を称する」ことが原因となり「不退転地に至る」という結果が生まれるということでしょうか。「名号を称する」ことは「本願を憶念する」ことと別ではありませんから(行と信はひとつですから)、「本願を憶念する」ことと「必定に入る」ことが時間的に切り離されているのではなく「不一不二」であるように、「名号を称する」ことと「不退転地に至る(必定に入る)」こともまた「不一不二」であると言わなければなりません。すなわち「名号を称する」ときには、「もうすでに」「不退転地に至っている」ということです。

さて「正信偈」の「ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」ですが、これは「如来の号を称する」のは、本願力のはたらきにより「不退転地に至る」ことができた「恩を報ずる」ことに他ならないということ、いわゆる「仏恩報謝の念仏」ということですが、これまた「不退転地に至る」ことができたことが原因となり「如来の号を称する」という結果が生まれるということではありません。そうではなく本願力により「不退転地に至る」ことができた慶びが、おのずから「南無阿弥陀仏」という声となって口をついて出るということで、ここでも「不退転地に至る」ことと「如来の号を称する」ことを原因・結果の関係として切り離すことはできません。

(第6回 完)


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