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賜りたる信心 [『唯信鈔文意』を読む(その114)]

(6)賜りたる信心

 「一行」とは他の行を捨てるということですが、「一心」は他所にこころが向かないということで、もう迷いがない、ほんとうにこれでいいのかという疑いから離れているということです。しかしどうしてそんなことが可能なのか。
 お坊さんから「念仏すれば浄土で永遠に生きられるようになるんですよ、こんないいことないではありませんか」と言われたお婆さんのこころに「そんなこと言っても、誰もまだ浄土へ往ったことないのに、ほんとうにそうかどうか分かったものではない」という思いがうずまいていないでしょうか。
 「これから」のことには疑いがどこまでもつきまとうのです。
 としますと、「はじめの専は一行を修すべしとなり」は筋の通った話だと頷けても、「また専といふは一心なれとなり」となりますと、どうすればそんなことができるのかと思わざるをえません。迷いがなく、疑いがないなどというこころにどうしたらなれるのかと戸惑わざるをえないのです。
 そこで出てくるのが「賜りたる信心」です。お坊さんもそれを言われます、「念仏してお浄土で永遠に生きられるというのは、あなたのこころが信じるのではありませんよ、それは如来さまが与えてくださるのですよ」と。
 「賜りたる信心」が親鸞の他力思想の核心であることは間違いありません。迷いなく、疑いなく信じるこころも如来から賜るということ、ここが肝心要だとしまして、さてしかし、「なあお婆さん」と語りかけられたお婆さんが頷けたかどうか。一方で、「これから」浄土へ往き永遠に生きられると言われ、他方で、その信心は如来から与えられると言われても、それがストンと肚におちるでしょうか。

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