SSブログ
正信偈と現代(その144) ブログトップ

火宅無常の世界 [正信偈と現代(その144)]

(6)火宅無常の世界

 親鸞はほとんど無常ということばをつかいませんが、ないわけではありません。たとえば『歎異抄』後序にこうあります、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と。ここでは生死無常の代わりに火宅無常と言っていますが、その意味するところは明らかでしょう。「生老病死」の無常ではなく、煩悩熾盛、罪悪深重のわれらが生きることは燃え盛っている家のなかにいるようという意味の無常です。
 生死即涅槃の「生死」にはこの意味もあるのです。煩悩や罪悪の火宅にある「生死」です。その意味の「生死」がそのままで「涅槃」であるとは、どのように胸に納めようとしても納まるものではありません。ところが浄土門的な語りはこう言うのです、あるとき不思議な声がして、「なんじのいのちは、そのままで如来のいのちである」とよびかけてくるのだ、と。「なんじのいのちは、そのまま如来のひかりのなかに摂取されている」という声が聞こえるのだ、と。
 この語りを聞いた人はどう思うでしょう。この語りを聞くことは、われらによびかけてくる如来の声を聞くことではありません。くどいようですが、この違いは何度でも確認する必要があります。で、この語りを聞いた人は、如来がわれらによびかけてくるという言い回しにまずは驚くでしょう、「へえー、そんなことがあるのか」と。いや、そこでフリーズしてしまうかもしれません、「そんなばかなことがあるはずがない、こんなことを言う人は、何か幻聴のようなものを聞いているのか、それともわれらを誑かそうとしているに違いない」と。
 でも、これは何か不可思議な経験をこんなふうに語っているのだろうと受けとめられたらどうでしょう。自分にはそんな経験はないが、そういうことがあってもおかしくはないだろうと思えば、向こうからやってきたということばに興味をもつようになるのではないでしょうか。そしてその人の語ることをもっと聞いてみたいと思うのではないか。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その144) ブログトップ