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われまたかの摂取のなかにあれども [正信偈と現代(その182)]

(3)われまたかの摂取のなかにあれども

 清沢満之のことばがわれらの胸を打つのは、あくまで「われ」を主語に語っているからです。浄土教関係の本を読みますと、そのほとんどが「阿弥陀仏は云々」とか「弥陀の本願は云々」というように語られます。それは当然と言えば当然で、それ以外にどう語ればいいかと言われるかもしれませんが、満之の書くものは、できるだけそのような語り方を避けようとしていると感じられます。そして「われは」と語るのです。「阿弥陀仏は」ではなく「われは」と語る。
 満之的な語りとは、「阿弥陀仏は実在する。ゆえに阿弥陀仏を信ずる」ではなく、「われ阿弥陀仏を信ずる。ゆえに阿弥陀仏は実在する」と語るのです。
 源信の「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえてみることあたわずといえども、大悲ものうきことなく、つねにわが身を照らしたもう」に戻ります。この文が感動を与えるのは、源信が他ならぬ「われ」について語っているからだということを述べてきましたが、さてこの文は「われ」について何を語っているのでしょう。分解しながら細かく見てみますと、①「われ」は阿弥陀仏の心光に摂取されている。②「われ」はしかし煩悩の所為でその心光を見ることができない。③「われ」はしかし弥陀の大悲に照らされている、となります。
 「われ」は弥陀の心光に照らされているのだが、それを目の当たりに見ることはできないということ。
 プラトンのイデア論が頭に浮びます。われらの魂はもともと(この世に生まれてくる前は)、真理そのものを目の当たりに見ていたのだが、肉体をまとって生まれてくるとき、それを忘れてしまったのだ、というのです。真理そのものといいますのは、たとえば美しさそのもののことで、それをプラトンは美のイデアと呼びます。美しいものを美しいとする元と言えばいいでしょうか。それがあるからこそ個々の美しいもの(美しい女性、美しい富士山、美しい花など)を美しいと言える、その当のものです。

タグ:親鸞を読む
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