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安楽世界に生ずることを得しむ [「『証巻』を読む」その111]

(8)安楽世界に生ずることを得しむ

この文もまたすんなりとは頭に入ってきませんが、それといいますのも、例によって親鸞が独自の読みを施しているからです。

これまで繰り返し述べてきましたように、天親・曇鸞は「われら願生の行者」を主語として語っているのを、親鸞は「法蔵菩薩」を主語として読み替えますので、文章が複雑に屈折することになるのです。なかでも、もっとも分かりにくいのが「入第三門」すなわち宅門の箇所で、これは普通に読みますと「一心専念にかの国に生ぜんと作願し、奢摩他寂静三昧(しゃまたじゃくじょうざんまい)の行を修するをもつてのゆゑに、蓮華蔵世界に入ることを得」となります。これですと、われらが往生を願い禅定を修することにより、蓮華蔵世界に入ることができるということで、文意がすんなり通ります。ところが親鸞は作願し禅定を修するのは法蔵菩薩で、そのことによりわれらが蓮華蔵世界に入ることができると読みますので、文が複雑に折れ曲がるのです。

しかし親鸞としては、われらが往生を願い禅定を修するから、蓮華蔵世界に入ることができると読むことはどうあってもできないのです。そもそも、どうしてわれらが往生を願うことで、それが実現すると言えるのか、そんなことを言う根拠がどこにあるのかという疑問が起こるからです。その疑問にズバリ答えてくれるのが、「それは法蔵菩薩がわれらのために往生を願ってくださっているからである」ということです。われらが往生を願うのに先立って、法蔵菩薩がわれらの往生を願ってくださっているからこそ(本願があるからこそ)、われらの願いが実現するのです。

すぐ前のところで(6)、第十八願成就文の「即得往生」についての親鸞の注釈を上げましたが、この成就文についても特筆すべきことがあります。それは「至心回向」の読みについてです。「至心回向、願生彼国、即得往生」という成就文を普通に読みますと、「至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得」となりますが、親鸞はそれを「至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得」と読みます。この目覚ましい読み替えにも、同じ意図がはたらいています。


タグ:親鸞を読む
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