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よろこびまもりたまふなり [『浄土和讃』を読む(その188)]

(21)よろこびまもりたまふなり

 現世利益和讃の最後の一首です。

 「南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞(いにょう)して よろこびまもりたまふなり」(第110首)。
 「南無阿弥陀仏となえれば、どこにもおわす仏たち、ぐるりまわりをとりまいて、よろこびまもりたまうなり」。

 南無阿弥陀仏を称えたら、観音・勢至などの菩薩たち、阿弥陀仏の化仏たちが護ってくださるとうたったあと、最後に十方無量の諸仏が十重二十重どころか百重千重に囲んで「よろこびまもりたまふ」とうたいます。今は第九の季節ではありませんが、ぼくにはあの「歓喜の歌」の大合唱の光景が眼に浮かびます。バリトンの「フロイデ(喜びというドイツ語)」に合唱隊が「フロイデ」とあわせる、あのシーンのように、ひとりが南無阿弥陀仏を称えたら、百重千重に囲む無量の諸仏が南無阿弥陀仏と声をあわせるというイメージです。かくして世界中に南無阿弥陀仏の声が満ち満ちる。
 どうしてひとりが南無阿弥陀仏を称えると周りの無数の諸仏が南無阿弥陀仏とあわせるかと言いますと、南無阿弥陀仏は喜びであり、喜びは共鳴するからです。
 喜びの共鳴については、本願成就文にこうありました、「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん」と。これは親鸞独特の読み方ですが、名号が聞こえることと、信心歓喜することと、乃至一念することがひとつらなりであることがよく伝わります。南無阿弥陀仏が聞こえますと、こころに喜びがわき上がり、それはただちに南無阿弥陀仏となってほとばしるということです。これはわれら衆生について言われていますが、諸仏も同じで、誰かが南無阿弥陀仏を称えますと、それはただちに世界中の諸仏に伝わり、諸仏に喜びの輪が広がっていくに違いありません。南無阿弥陀仏は次々に南無阿弥陀仏を点火していくと言えばいいでしょうか。
 「フロイデ」は「フロイデ」を呼び、その「フロイデ!がまた「フロイデ」に点火して、世界中が「フロイデ」の一大交響曲となるのです。

                (第11回 完)

タグ:親鸞を読む
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