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悪と愚はひとつ [親鸞の手紙を読む(その58)]

(7)悪と愚はひとつ

 煩悩といえば、貪欲(とんよく)と瞋恚(しんに)と愚痴(ぐち)の三毒を上げるものですが、この三つの並びになにか不自然さを感じないでしょうか。貪欲(むさぼる)と瞋恚(いかる)を同じ仲間とすることには何の違和感もありませんが、愚痴(おろかさ)がどうもしっくりこない。貪欲と瞋恚は外にかたちとして現れ、絵にかけますが、愚痴はそれらとはなにか別種のもののように感じられます。ところがその三つを一緒に並べるところに仏教の特徴があります。
 悪も愚もひとつということです。
 釈迦は生きることはすべて苦とあるとし(苦諦といいます)、苦のもとは我執(「われ」と「わがもの」への執着)であると捉えました(これが集諦)。この我執が煩悩です。われらが「ものをむさぼる(貪欲)」のは、「これはわがものである」と執着しているということですし、「何かにつけて怒る(瞋恚)」のは、「われはただしい」と執着しているということです。そしてわれらが「何ともおろかである(愚痴)」のは、「われがある」ことに囚われ「これはわがものである」と執着することにその根っ子があります。としますと貪欲も瞋恚も愚痴もみな我執に他ならならず、ひとつということです。
 さて、苦のもとが煩悩すなわち我執で、それがなくなった境地が涅槃寂静(ニルヴァーナ)です。これを滅諦といいますが、この「滅」という文字から、うっかりわれらが我執を「滅する」ことにより涅槃に至ることができると考えますと、思わぬ落とし穴にはまってしまいます。我執を「滅しなければならない」と言われても、いったい誰が我執を滅するのでしょう。それは「われ」でしかありませんが、「われ」がどのようにして「われ」への執着を滅することができるか。「われ」が「われ」の影を消すことができないように、「われ」が「われ」への執着を消すことはできません。
 では滅諦とは何か。それはわが内なる我執に気づくことに他なりません。「これはわがものである」とむさぼり、「われは正しい」と怒り、「われがある」と囚われていると気づくこと、これです。

タグ:親鸞を読む
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