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ただ念仏して、われにたすけられまゐらすべし [『歎異抄』ふたたび(その67)]

(5)ただ念仏して、われにたすけられまゐらすべし

 ここであらためて留意しなければならないのは、「ただ念仏して、われにたすけられまゐらすべし」という「弥陀のよびごえ」は、それだけとして直接どこかから聞こえてくるのではないということです。もしこの不思議な声が空のどこかから舞い降りてくるとしますと、これはもうオカルトの世界です。浄土の教えはオカルトではありません。親鸞は「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」という「よきひとの仰せ」をかぶるなかで、その仰せのなかから「ただ念仏して、われにたすけられまゐらすべし」という「弥陀のよびごえ」を聞いたのです。これが親鸞の信心です。
 かくして「浄土の教えにおいて師とは何か」という先の問いに答えることができます。 
 すでに「ただ念仏して、われにたすけられまゐらすべし」という「弥陀のよびごえ」を聞いて救われた人が、その慶びを分かちあたえようと「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」と語る。そして誰かがその語りのなかから「ただ念仏して、われにたすけられまゐらすべし」という「弥陀のよびごえ」を聞くことができたとき、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」と語ってくれた人がその人の「よきひと」となると。「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」という教えを聞いたからといって、そのなかから「ただ念仏して、われにたすけられまゐらすべし」という「弥陀のよびごえ」が聞こえるとは限りません。それが聞こえた人は救われ、聞こえない人には何ごとも起らない。それは縁であるとしか言えません。
 ここから「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなることのある」ということばが出てきますが、このことばから頭に浮ぶのが覚如の『口伝鈔』に記されている信楽房(しんぎょうぼう)にまつわる話です。この人、常陸から親鸞のもとに上京してきていたのですが、何か親鸞から咎めをうけて国に戻ることになり、その折、親鸞の傍に仕える蓮位房が親鸞に「もう御門弟ではなくなったのですから、渡されている本尊(「南無阿弥陀仏」の名号本尊でしょう)や聖教は取り戻されるべきではありませんか」と言ったというのです。

タグ:親鸞を読む
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