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本願他力の一色 [『末燈鈔』を読む(その135)]

(7)本願他力の一色

 かなり横道にそれてしまったようですが、自力・他力が相対的かどうかを考えているのでした。
 もし世界そのものが相対的だとしますと、自力・他力も相対的たらざるをえず、かくして、他力のなかに他力と自力があり、他力のなかの他力にもまた他力と自力があり、そして云々とどこまでも切りがなくなります。しかし、ぼくらが相対のめがねを掛けているとしますと、なるほどめがね越しの世界は否応なく相対的ですが、しかし世界そのものが相対的かどうかはまったく分かりません。
 善悪の問題で考えてみましょう。相対のめがねを掛けて眺めますと、善悪はひとつの直線上に並びます。右へ行けば行くほど善く、左へ行けば行くほど悪い。そして右にも左にも終わりはありません。自分はそのどこかに位置づけられますが、どこにあるにせよ、上には上があり、下には下があります。どれほど上でも、さらにその上があり、どれほど下でも、まだその下がある。
 さてしかし、その善悪の数直線に亀裂が走ることがあります。「オレは確かに善人といえないが、しかしもっと悪いヤツはいくらでもいるさ」と思っているところに、「オマエもオマエが極悪人と思っている連中としょせん同じじゃないか」という声がどこかから聞こえるときです。そのとき「ああ、そのとおりだ」と打ちのめされ、「そうか、相対のめがねを掛けて善悪を眺めているから、上には上があり、下には下があると思えるのか」と気づくのです。
 自力・他力も同じで、まあまあ他力、かなり他力、非常に他力、などのグラデーションのなかで考えているとき、「それはしょせん自力ではないか」と気づかされ、他力とは本願他力の一色しかないこと、そして「他力のなかの自力」とはしょせん自力に他ならないことに思い至るのです。


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