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善悪の宿業をこころえざる [『歎異抄』ふたたび(その100)]

第11回 宿業ということ


 (1) 善悪の宿業をこころえざる


 さて重要な問題が含まれているとして残しておいた第13章です。全文を読みたいと思いますが、長いので3段に分け、まずその第1段。


 


 弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。


よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。


またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」とかさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状(承諾する)申して候ひしかば、「たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と申して候ひしかば、「さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と仰せの候ひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことを悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを仰せの候ひしなり。


 


この段はうっかり落とし穴にはまらないよう用心してかからなければなりません。冒頭に「弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて」とありますので、「ああ、これは本願ぼこりの異義を批判しているのか」と速断してしまいますと、その後の文脈が見えなくなってしまいます。最初の一文をよく読みますと、この段は、「弥陀の本願は悪人成仏のためにあるのだから悪をおそれることはない」と考えることを批判しているのではなく、「悪をおそれることはないなどと思っているようでは往生できない」と言う人たちを批判しているのです。当時、「悪をもおそるべからず」(これは第1章に親鸞のことばとして出てきました)という言説を本願ぼこりとして否定する風潮があったようで、唯円はそれを異義として取り上げているのです。



タグ:親鸞を読む
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