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光明・名号、因縁をあらはす [「『正信偈』ふたたび」その92]

(4)光明・名号、因縁をあらはす

このように光明(ひかり)と名号(こえ)が因縁となって「罪悪生死の凡夫」が往生できることになるのですが、そのさい忘れてならないのは『礼讃』の文にもありました「ただ信心をもつて求念すれば」ということです。すなわち本願(ねがい)は光明(ひかり)と名号(こえ)となって衆生のもとに届けられるのですが、衆生がそれに気づき、それを信受することがなければ、折角の光明・名号もその役割を果たすことができません。「ただ信心をもつて求念する」とは衆生が光明・名号の因縁に気づき、それを信受するということです。

このことを親鸞は「行巻」でこのように言います、「徳号(名号です)の慈父ましまさずは能生の因(往生の因)かけなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁(往生の縁)そむきなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(ごっしき、識別作用のこと、いまは気づき)にあらずは光明土(浄土)に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明・名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す」と。まずは光明と名号の因縁がなければ往生できないが、しかしそこに信心がなければ光明・名号もはたらくことができない。したがって光明・名号と信心がそろってはじめて往生が可能になるということです。

さてこのように光明・名号だけでは浄土に到ることができず、そこに信心がなければならないと言われますと、信心とは光明・名号にわれらの力でつけ加える何かであるような印象が与えられます。確かに信心とはわれらが光明・名号に気づき、それを信受することですが、しかしそれはわれらの力によって光明・名号につけ加えることではありません。われらのなかに光明・名号を信受する力があるのではなく、われらが光明・名号に気づき、それを信受することもまた光明・名号の力です。光明・名号のはたらきによりわれらに信心がおこされ、かくして光明・名号と信心がそろい往生が可能となるのです。

信心は間違いなくわれら「に」おこりますが、われら「が」おこすことはできません、光明と名号がおこすのです。


タグ:親鸞を読む
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