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自力は自力のままで他力 [「信巻を読む(2)」その81]

(11)自力は自力のままで他力

法然は「真vs.偽」というスタンスであるのに対して、親鸞は「真vs.仮」というスタンスを取ります(偽を否定するわけではありませんが、後景に退きます)。「真vs.偽」の場合、真を取り偽を捨てるという廃立の立場になりますが、「真vs.仮」でしたら、仮は廃されることなく包摂されます。仮はもちろん真ではありませんが、しかしいずれ真に至る道程にあるものとして認められるのです。親鸞が仮とするのは聖道門の教えと浄土門のなかの定散二善の教えですが、いずれも「自力」をその本質としています。そして真は「他力」にありますから、「真vs.仮」は「他力vs.自力」ということになります。他力が真ですが、だからと言って自力は偽ではなく仮であるとされるのです。ここに親鸞独特の視点があります。

「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」ということばで言いますと、われらは否応なく「わたしのいのち」を生きています。このいのちは「わたしのいのち」であり、「わたしの裁量」で生きていると思っています。これが自力ということですが、あるとき「わたしのいのち」はそっくりそのままで「ほとけのいのち」に生かされているという気づきが起こります。これが他力の気づきで、ここに真が姿をあらわすのですが、そのとき自力が偽として否定されるわけではありません。否定するも何も、われらは否でも応でも「わたしのいのち」を生きるしかありません。ただ、これまではひたすら「わたしのいのち」を生きているだけでしたが、いまや「わたしのいのち」を生きながら、それがそっくりそのまま「ほとけのいのち」に生かされていることに気づいています。

真は自力が自力のままで他力であると気づいていることであるのに対して、仮は他力の気づきがなく、自力に囚われているということです、ただひたすら自力の世界に閉ざされているということです。しかし「大悲倦むことなく、つねにわれを照らしたま」いますから、他力の大悲に気づくときがいずれやってくるに違いありません。


タグ:親鸞を読む
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