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不老長生 [はじめての『高僧和讃』(その44)]

(2)不老長生

 曇鸞讃の第1首です。

 「本師曇鸞和尚は 菩提流支(ぼだいるし)のをしへにて 仙経ながくやきすてて 浄土にふかく帰せしめき」(第21首)。
 「曇鸞和尚はしなくも、菩提流支から示唆をうけ、もてる仙経やきすてて、浄土にふかく帰依したり」。

 この和讃には解説が必要です。
 曇鸞は鳩摩羅什がもたらした中観哲学を修める一方で、涅槃経や大集経(だいじっきょう)の研鑽をつんでいたのですが、60巻もある大集経の注釈を試みる途中で大病を得ます。幸い病は癒えるのですが、曇鸞はそのとき経典の注釈という大事業を成し遂げるには不老長生の術を身につけなければならないと考え、道教の師をもとめてはるばる長江の南、江南まで出かけるのです。そして陶弘景という道教の指導者から仙経(道教の経典)を授けられ、帰路、洛陽でインドからやってきた菩提流支に出会うのですが、曇鸞はそのとき、所持していた仙経を見せながら、インドにはこれに勝るような不老長生の教えがあるかと尋ねたといいます。そのとき菩提流支はすかさず観無量寿経を上げて、これに勝る教えはないと答え、曇鸞はそれを機に浄土の教えに帰したと伝えられます。
 どうも出来すぎた話に思えますが、ともあれ龍樹の空観を学んだ曇鸞が病気をえたことで不老長生の術をもとめ、それを機に浄土の教えに転じたことには興味を惹かれます。龍樹自身、空の哲理を追究しながら、その一方で阿弥陀仏を念じて往生浄土を願ったのですが、これは、いかに精緻を極めようと、論理のことばには限界があるということを示唆しているのではないでしょうか。現実的で具体的な問題(老・病・死)にぶつかったときには、論理のことばよりも物語のことばこそ胸にしみ力を発揮すると思われます。

タグ:親鸞を読む
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