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自然法爾章(1) [親鸞の和讃に親しむ(その117)]

(7)自然法爾章(1)

「獲(ぎゃく)」の字は、因位のときうるを獲といふ。「得」の字は、果位のときにいたりてうることを得といふなり。

「名」の字は、因位のときのなを名といふ。「号」の字は、果位のときのなを号といふ。

「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるをいふことばなり。

弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。(つづく)

どういうわけか『正像末和讃』の末尾にこの法語が置かれています。その前に「親鸞八十八歳御筆」と書いてありますので、これは誰かがのちにつけ加えたものと思われます。この文がどのような事情で成立したかは、これとは別に高田専修寺蔵の「顕智本」と呼ばれるものがあり、そこに「正嘉二歳戊午(1258年、親鸞86歳)十二月日 善法房僧都(親鸞の弟)御坊 三条とみのこうちの御坊にて 聖人にあいまいらせてのききかき そのとき顕智これをかくなり」とあることから、弟子の顕智が親鸞から直に聞いた法話であることが分かります。ことばの繰り返しが多いのも、丁寧に説き聞かせているのだろうと納得できます。

ここで「自然」も「法爾」も「おのづからしからしめる」ということであると述べられ、他力の意味がこの上なくはっきりと示されています。すなわち自然=他力とは、こちらから「こうしよう、ああしよう」とはからうのに先立って、すべてむこうからはからっていただいているということだと。むこうからはからっていただくのを期待して待つのではありません、気がついたらもうすでにはからわれていたということです。そのことがより具体的に「南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたる」と述べられます。南無阿弥陀仏とたのむのはわれらですが、しかしそれに先立ち、われらが南無阿弥陀仏とたのむようにはからっていただいているのだと。そしてその上でそんなわれらを迎えとろうというのです。「信巻」に「欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有(しょう)の群生を招喚したまふの勅命なり」とあるのはそういうことです。

これが「他力には義(はからいです)なきを義とす」ということば(『歎異抄』第10章にも「念仏には無義をもつて義とす」というかたちで出てきます)の真意で、これはわれらに「はからうのをやめよ」と言っているのではありません(生きることは隅から隅まではからうことですから、はからうことをやめることは死ぬということです)。そうではなく、われらが南無阿弥陀仏とたのむのは、そのように如来にはからわれているのだというのです。はからわれているからはからうことができるのだということです。


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