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煩悩を断つ? [『歎異抄』ふたたび(その87)]

(8)煩悩を断つ?


親鸞にとって死はその人にとっての総決算(そこに向けてその人の生が方向づけられている)というようなものではなく、「なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべき」ものです。さて、こんなふうに思うことは仏弟子として恥ずべきことでしょうか。そこで釈迦自身は死についてどう考えたのかをおしはかってみましょう。


釈迦は生きることはすべて苦しみであるとして、その代表として生老病死の四苦を上げましたが、そのなかの死苦とは死そのものの苦しみよりも死を怖れることを意味します。そしてこの苦しみは煩悩に由来すると喝破しました。親鸞がここで「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり」と言うのはそのことです。


問題はこのあとです。「死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為」であるとしますと、死の怖れを克服するためにはその元である煩悩を断たなければならない、のでしょうか。しばしばそのように言われます、仏教は生老病死の四苦を克服するために煩悩を断つことを教える宗教であると。これは実に分かりやすい筋道ですが、さて釈迦はほんとうにそのように説いたのでしょうか。


煩悩を断ちなさい、そうすればあらゆる苦しみから解放されますと。ぼくには釈迦がそんなふうに言ったとは思えません。そしてもし釈迦がほんとうにそう説いたとしましたら、ぼくはもう釈迦についていくことはできません。むしろ釈迦は「煩悩を断つことはできない」ことに気づいたのではないでしょうか。彼が6年間に及ぶ苦行を中断したのはそれを意味するのではないか。


そもそも煩悩とは何でしょう。ものを貪り、それができないと怒る、その元は我執すなわち「われへの囚われ」にあります。「われ」がすべてのはじめ(起点)であると思い込み(デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」はその哲学的宣言です)、「これはわがものである」と執著する、これが煩悩です。そしてわれらの生はこの「われへの囚われ」の上に成り立っています。としますと、煩悩を断つということは、われらの生そのものを断つことに他なりません。



タグ:親鸞を読む
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