SSブログ
「『証巻』を読む」その83 ブログトップ

念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず [「『証巻』を読む」その83]

(10)念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず

親鸞の驚くべきことばが『歎異抄』に記録されています、「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり」と。そしてさらにこうつづきます、「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」(第2章)と。本願を信じ念仏を申せば「かならず仏となるべき身となる」というのが浄土の教えであるはずですが、本願を信じ念仏を申してもほんとうに仏になれるのかどうか「総じてもつて存知せざる」と言います。そして仏になるどころか、地獄におちたとしても「さらに後悔すべからず」と言うのですが、どこからこんなことばが出てくるのでしょう。

それは本願を信受することで「ほとけのいのち」に摂取不捨され、「もうすでに」救われているからに他なりません。「もうすでに」救いははじまっているのですから、おそらく「これから」も救いはつづくでしょうが、万が一、地獄におちたとしても、それはそれでかまわない。なぜなら、いま「もうすでに」救われているからであり、それ以上に何を求めようかということです。本願を信受することで、「わたしのいのち」のまま「ほとけのいのち」に摂取不捨されていることに気づかせてもらえました。「わたしのいのち」を生きていることでは、他の「わたしのいのち」たちと相剋せざるをえませんが、でも同時に「ほとけのいのち」に摂取不捨されていることで、他の「わたしのいのち」たちと一如になっています。

「わたしのいのち」を生きていることでは自他相剋していながら(「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして」です)、「ほとけのいのち」に摂取不捨されていることでは自他一如の中にあります(「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟」です)。これがわれらの救いであり、これ以外にほんとうの救いがあるわけではありません。そしてその救いは信心のいま「もうすでに」はじまっているのです。

(第8回 完)


タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『証巻』を読む」その83 ブログトップ