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4月3日(水) [はじめての親鸞(その97)]

 ちょっと飛び入りです。昨日、コーヒーブレイクのおしゃべりで、ある方が言われたことに感じ入りました。そのことを書いておきたいと思います。
 信仰心ということに関連して、その方はこう言われたのです、「むかしは、たとえば鶏肉を食べようとすると、自分の手で鶏の首をはねなければならなかった。ところがいまはそんなことをしなくても鶏肉が食べられるようになった。みんなの信仰心が薄くなったのはそのせいです。むかしは食べることひとつに罪悪感を抱かざるを得なかった」と。
 信仰心は罪悪感から生まれるという真理をみごとについています。包丁で鶏の首をはねるとき、「お前が生きるために、オレの首をはねていいのか」という問いを突きつけられるところに信仰心は生まれると思います。あるいは、あの大震災・大津波で亡くなった人たちから「なぜお前は生き延びた」という問いを突きつけられるところに信仰心は芽生えるのでしょう。
 その信仰心に仏教もキリスト教もイスラム教もないと思います。罪悪感に違いはないからです。そういえばレヴィナスという哲学者(彼はユダヤ人です)は、他者とは「顔」であると言い、その顔が「殺すな」と迫ってくると述べていました。彼が「顔」という特異なことばで指し示そうとしたのは、アウシュヴィッツで殺された同胞たちのことであったに違いありません。

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