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まことの信とは [親鸞の手紙を読む(その112)]

(10)まことの信とは

 親鸞はこうも言っています、「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」(『歎異抄』第2章)と。法然上人の言われていることが嘘っぱちであって、それを真に受けたがために地獄におちてもまったく後悔しないと言うのです。一方では、弥陀のような仏、釈迦のような仏が本願は嘘っぱちであると言ったとしても、それでグラつかないのがほんものの信心であると言い、他方では、法然上人の言われることが嘘っぱちであっても、それで本願を信じることが揺らがないのが真の信心だと言う。
 要するに、ほんものの信は、権威ある人が言っていることに左右されるようなものではないということです。
 ぼくらは権威に弱いものです。あることを聞いたとき、真っ先に「それを言っているのは誰か」を探り、権威ある人が言っていると信じ、権威がないと信じない。これは権威主義と非難されますが、しかしそれにまったく根拠がないわけではないでしょう。それを言っているのが権威ある学者であるということは、それを信じる「ひとつの」理由にはなります。権威主義という非難は、自分自身でことの当否を判断しようとしないで、権威ある人が言っているかどうかだけを判断基準にするからです。どんな権威が言っているとしても、ほんとうにそうかを確かめようとする心構えが大切ということです。
 さてしかしここで親鸞が、弥陀のような仏、釈迦のような仏が本願なんて嘘だと言ったとしても、微塵も信心がグラつかないのがほんものの信心だと述べているのは、権威ある人が言っているから信じるという権威主義を否定するといった単純なことではありません。権威ある人が言っているから信じるにせよ、自分自身で慎重に判断して信じるにせよ、とにかく「こちらから何かに信を与える」という姿勢を問題にしているのです。ほんものの信はそんなものではないと。
 「こちらから信を与える」のではなく、逆に、「むこうから信を与えられる」のがほんものの信だと言っているのです。

タグ:親鸞を読む
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