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気づきは風に運ばれて [生きる意味(その137)]

(11)気づきは風に運ばれて

 自分が気づくのではなく、何かの力で気づかせてもらう。そしてどちらにしても機が熟していなければ、気づきが向こうからやってきても、それを受け止めることができません。気づきを受け止める<場>が開かれていなければなりません。
 気づきが向こうからやってくるということと、気づきが起こるためにはそのための<場>が開かれていなければならないということはひとつながりのことです。ただ、そのどちらにウエイトをおくか、前者に軸足を置くか、それとも後者に重心をかけるかで浄土か禅かが分かれるだけではないでしょうか。
 「先生ごめん」の一言が爽やかな風のように吹いて、世界が一変しました。それまでの冬枯れの寒々として景色から、麗らかな春の日の陽だまりへと。その時、心が通じ合ったと感じたのですが、実は「もうすでに心が通じ合っていた」ことに気づいたのです。いや、ぼくがそのことに気づいたのではありません。その気づきが一陣の風に乗って向こうからやってきたのです。 
 ぼくが気づいたのではなく、世界がぼくという<場>で気づいた。気づきが起こっているからには、そこにぼくがいるのは間違いありません。でもそのぼくというのは、気づきを受け止める<場>に過ぎません。気づきそのものは「先生ごめん」という爽やかな風に運ばれてやってきたのです。


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