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なんぢ一心に正念にしてただちに来れ [『教行信証』「信巻」を読む(その77)]

(5)なんぢ一心に正念にしてただちに来れ


それが「東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜず」という一段で、ここにこの譬えの核心部があります。釈迦発遣の「こえ」と弥陀招喚の「こえ」が聞こえることで行者に清浄願往生心が生まれ、もはやどんな誘惑や脅しがあろうと「疑怯退心を生ぜず」ということです。


水火の二河に白道がありますが、その幅たるやわずか四五寸にすぎず、しかも「水の波浪交はり過ぎて道をうるほす。その火焔また来りて道を焼く」というありさまで、とても渡りきれそうにはありません。とはいうものの後ろから群賊や悪獣にせめたてられ、どのみち死ぬのであれば「この道を尋ねて前に向かひて去かん」と決意したその時です、釈迦発遣の「こえ」と弥陀招喚の「こえ」が聞こえた。この「こえ」が行者に清浄願往生の心を与えたのです。親鸞的にいうならば、如来の回向発願心が行者のもとにやってきて清浄願往生心となったということです。


親鸞はここで善導が「弥陀の悲心招喚」と言っていることに敏感に反応し、「行巻」において名号について「本願招喚の勅命」であると述べています。すなわち南無阿弥陀仏の南無は帰命という意味であり、帰命とは如来が衆生に「よりかかれ」、「よりたのめ」と呼びかけることであるというのです。これは、この譬えのなかで弥陀が行者に「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」と招喚する「こえ」こそ南無阿弥陀仏であるということに他なりません。南無阿弥陀仏はわれらが如来に呼びかける「こえ」ではなく、逆に、如来がわれらに呼びかけてくる「こえ」であるということです。如来がわれらに「来れ」と呼びかけてくださるから、われらは心静かに往生を願うことができるのです。



タグ:親鸞を読む
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