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物語のことば [正信偈と現代(その90)]

(9)物語のことば

 「物語のことば」は現実から自由だと言いましたが、でもその出発点はあくまでも「気づきという事実」です。名状しがたい気づきがあった、というそれ自体は天地がひっくり返っても確かな事実からスタートして、こんな気づきがあるということは、というように、そこから前に遡って自由に想像を膨らませていくのです。こんな気づきがあるからには、誰かが気づかせてくれているのではないだろうか、といったふうに。それが、むかし法蔵菩薩という方がおいでになって、世自在王仏のもとで、どのようにすれば生きとし生けるものをもらさず救うことができるのだろうと五劫のあいだ思惟なされた、云々という物語に結実したのではないでしょうか。
 こんなふうに言いますと、『無量寿経』はおとぎ話だというのか、とお叱りのことばが飛んでくるかもしれませんが、ぼくはそれに対して、おとぎ話であって何がいけないのかとお返ししたいと思います。あらためて確認しておきたいのですが、仏教の経典にせよ、高僧たちの論釈にせよ、真理を伝えることばというものは、真理そのものの気づきに至るための道しるべにすぎないのです。道しるべは、人を目的地(真理そのものの気づき)に導くことがその役割ですから、それがどのようなものであれ、首尾よく目的地を指し示すことができれば、すぐれた道しるべと言わなければなりません。
 ここから龍樹のいう難行道、易行道の区別が出てきます。目的地を指し示す道しるべに二種類あり、難行道を指し示すものと、易行道を指し示すものがあるということです。どちらにしたがっても目的地に行けるのですが、一方はとてつもなく困難な道をたどらなくてならないのに対して、他方はいともたやすい道であるというのです。一方は論理の法則にしたがって否定に否定を重ねていかなければなりませんが、他方は物語に耳を傾けているうちにある気づきに至るというのです。

                (第10回 完)

タグ:親鸞を読む
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