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『教行信証』精読2(その21) ブログトップ

本文2 [『教行信証』精読2(その21)]

(4)本文2

 『述文讃』からの引用がつづきます。

 またいはく、「(法蔵菩薩は)福智の二厳(にごん)1成就したまへるがゆへに、つぶさに等しく衆生に行を施したまへるなり2。おのれが所修をもつて衆生を利したまふがゆゑに、功徳成ぜしめたまへり」と。
 またいはく、「久遠の因によりて、仏に値(もうあ)ひ、法を聞きて慶喜(きょうき)すべきがゆゑに」と。
 またいはく、「人聖(しょう)に、国妙(たえ)なり。たれか力を尽さざらん。善をなして生を願ぜよ。善によりてすでに成じたまへる3、おのづから果を獲ざらんや。ゆゑに自然といふ。貴賤を簡(えら)ばず、みな往生を得しむ。かるがゆへに著無上下(ちょむじょうげ、上下なきことを著(あら)わす)といふ。
 
 注1 福徳と智慧のこと。六波羅蜜のうち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定を福徳といい、般若が智慧だから、福智で六波羅蜜を指す。
 注2 普通は「施等の衆聖の行を備ふるなり」と読むが、親鸞は上のように如来がわれらに回向したまうと読む。
 注3 普通は「因の善すでに成ずれば」と読むが、親鸞は如来が因を成ぜられたと読む。

 (現代語訳) また『述文讃』にこうあります。弥陀は福徳と智慧の行を成し遂げられましたから、それをひとしく衆生に念仏の行として与えてくださるのです。自分が修めた行をもって衆生を利益してくださいますから、その功徳は衆生の上に成就するのです。
 またこうあります。遠い昔からの因縁によっていま仏に遇うことができ、法を聞いて喜ぶことができるのです。
 またこうあります。浄土の人たちはみな聖者であり、その国土はうるわしい。力を尽くして往生しようと思わない人がいるでしょうか。善をなし往生を願いなさい。すでに如来の善により往生の因はととのえられていますから、その果が得られないはずがありません。だから自然というのです。貴賤を選ぶことなく、みな往生できます。だから大経に「上下がない」と言われているのです。

タグ:親鸞を読む
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