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多生にもまうあひがたく [『教行信証』精読(その66)]

(8)多生にもまうあひがたく

 釈迦の縁起という考え方のポイントは、どんなコトもモノも、それだけで自立しているのではなく、他の無数のコトやモノとの縦横無尽の繋がりの中ではじめて成り立っているということです。
 『平等覚経』に説かれている阿闍世王の太子と五百の長者の子たちについての話に戻りますと、かれらがいま弥陀の本願に遇うことができたのは、これまで無央数劫の間、数限りない仏たちを供養してきて、前世にはすでに釈迦の弟子となっていたからであると述べられていました。これはこれまで善いことをしてきたから、いま本願に遇うという善い結果につながったという、いわゆる善因善果ということを言っているように見えます。縁起を説明するなかで「善因善果・悪因悪果」と分かりやすく言い換えられることがありますが、これには注意が必要です。いま弥陀の本願に遇うことができたことは、これまで無数の仏たちを供養してきたことと繋がっているのはもちろんですが、でも縦横無尽の繋がりのなかからそれだけを取り出すことはできないはずです。
 実際、すぐ前の引用文(本文2)で「前世に悪のためにわが名字を聞き」とありましたが、これは悪が因となって「わが名字を聞く」という善果に繋がったかもしれないということです。はかりしれない複雑な繋がりのなかで「わが名字を聞く」ことが成り立ったわけで、そこから何か特定の因子を都合よく取り出すことはできません。いわゆる因果の概念は特定の原因と特定の結果との間の一方向の繋がりを見いだそうとするものですが、それと仏教の縁起の思想とは似て非なるものと言わなければなりません。縁起の思想は、無数の錯綜した線の繋がりから「縁は異なもの味なもの」と感じているのに対して、いわゆる因果の概念は特定の一本の線を見いだすことで、それを実生活に生かそうとする発想です(この点についてはまた機会をえて戻ってきたいと思います)。
 親鸞が阿闍世王の太子と五百の長者の子たちについての経文を引いたのは「善因善果」を言おうとしてのことではなく、「ああ、弘誓の強縁、多生にもまうあひがたく、真実の浄信、億劫にもえがたし」(「序」)と言いたいがために他なりません。

タグ:親鸞を読む
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