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過去、現在、未来 [「親鸞とともに」その118]

(2)過去、現在、未来

明日は今日にあり、老後は「いま」にあることを考えてきましたが、これはしかし普通の時間の感覚からはかなりズレていると言わなければなりません。普通には、まず過去があり、それが終わって現在がある、そしてその後に未来がやってくると思っています。このように時間は一本の線として描かれ、その線の上に過去の時間、現在の時間、未来の時間が並び、過去から現在、そして未来へと時間が進んでいくと思われています。さてこの常識的な時間の感覚において「いま」はどこにあるでしょう。もちろん現在にありますが、ただ、それがいつのことかはこの時間軸を思い描いている人によって異なります。ぼくの思い描く時間軸では、「いま」は西暦二十一世紀ですが、ぼくの父の時間軸では、「いま」は二十世紀になります。

としますと「いま」は時間軸上で人によってさまざまであり、それぞれの「わたし」が存在している時点が「いま」ということです。しかもその「いま」は、そのことばが発信される文脈によりその長さに大きな幅があります。「ぼくはいま食事中です」と言うときの「いま」は一時間より短いですが、「ぼくはいま教師をしています」と言うときの「いま」は十年単位の長さです。さらに「いまは第四間氷期です」と言うときの「いま」は数万年、いや数十万年にもなります。ですから、「いま」ということばは、それを言っているのが誰であり、どのような状況で言われているのかによって、それが指している時間がまったく異なるということです。

そしてさらに重要なこととして言わなければならないのは、「いま」が人によりさまざまであるだけでなく、「過去」もまた人によって異なるということです。「いま」が人により異なるのですから、「過去」もまた異なるのは当然のことですし、同時代に生きている人にとっても、その「過去」はその人それぞれであると言わなければなりません。それぞれの人が、その人だけの「過去」をかかえて生きているのです。ここで反論があるでしょう。なるほど人それぞれの「過去」はあるだろうが、しかし共通の「過去」もあるのではないか、その共通の「過去」を歴史と呼んでいるのではないのか、と。


タグ:親鸞を読む
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