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本願ぼこり [『歎異抄』ふたたび(その101)]

(2)本願ぼこり


しかしだからと言って唯円はいわゆる本願ぼこり(あるいは造悪無碍)を肯定しているわけではありません。この次の段で彼はそれをはっきり邪見として否定しています。ここがきわめて分かりにくいところですが、あらためていわゆる本願ぼこりとは何かを確認しておきましょう。親鸞自身のことばでは、弥陀の本願は煩悩具足の凡夫をたすけんための願だから「こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべし」(『末燈鈔』第20通)と考えることを言います。この考えを親鸞は「薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はず」と厳しく否定しています。


「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」(悪人正機)と「悪にくからず、こころのままにてあるべし」(造悪無碍)。ちょっと見たところ同じに思えますが、前者は肯定され、後者は否定されます。どう了解すればいいか。


手がかりは上の手紙(『末燈鈔』第20通)の中にあります。親鸞はそこで「はじめて仏のちかひをききはじむるひとびと」と「かくききてのち、仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬる(人)」を区別しています。そして前者のひとびとは「わが身のわろくこころのわろきをおもひしりて、この身のやうにてはなんぞ往生せんずる」と思っているから、「煩悩具足したる身なれば、わがこころの善悪をば沙汰せず、(弥陀は)迎へたまふ」と言わなければならないが、しかし後者については「もとこそ、こころのままにてあしきことをもおもひ、あしきふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまふ」に違いないと言います。


「仏のちかひをききはじむるひとびと」の眼はおのずから「来し方」に向いています、こんな罪悪深重の自分が往生できるのだろうかと。その人に対しては「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」と言わなければなりません、「罪悪深重のあなたこそ本願のお目当てです」と。一方「仏を信ぜんとおもふこころふかくなりぬる(人)」の眼は「行く末」に向いています、本願を聞くことがなかったこれまでとは違う新しい生き方をしなければと。その人に「悪にくからず、こころのままにてあるべし」などと言うのは料簡違いも甚だしいと言わなければなりません。



タグ:親鸞を読む
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