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正体見たり [『歎異抄』ふたたび(その88)]

(9)正体見たり


仏教は煩悩を断つことにより死の怖れを克服できるという教えではありません。煩悩を断つことはできず、したがって死の怖れを克服することはできないと説く教えです。煩悩を断ち、死の怖れを克服することを悟りというとしますと、釈迦は悟ることはできないと悟ったのです。


そんな教えに何の意味があるのかと言われるかもしれません、死の怖れを克服できてはじめて教えと言えるのではないかと。いえ、仏教は死の怖れの正体を明らかにしてくれるのです、それは煩悩すなわち「われへの囚われ」であると。そして死の怖れの正体が明らかになることで、死の怖れが和らぎます。残念ながら死の怖れがなくなるのではありません、その正体である「われへの囚われ」はそのままですから。でも、正体を知ることで怖れが和らぐのです。


「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の場合、正体を突き止めることで怖れはきれいになくなりますが、死の怖れの場合は、その正体が「われへの囚われ」であることに気づいても、怖れが消えることはありません。死の怖れの正体が「われへの囚われ」であるということをもっと分かりやすく言えば、「これは“わがいのち”である」と思い込んでいるからこそ、かけがえのない「わがいのち」がなくなることに得も言われぬ怖さを覚えるということです。


「われへの囚われ」が死の怖れの正体であることに気づいても、「われへの囚われ」はこれまでと変わることなくつづきますから(「われへの囚われ」がなくなった人は、まもなくこの世から消えるでしょう)、死の怖れの元がそのままである以上、死の怖れがなくなることはなく、「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼ」えざるをえません。では死の怖れの正体に気づいたことで何がおこるのかといいますと、その怖れが和らぐのです。


身体の不調に襲われ不安に苛まれているとき、その正体が分かることで、身体の不調はそのままでも、その不安が和らぐように。





タグ:親鸞を読む
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